スマナサーラ長老の本『慈悲の瞑想』を読んでみた・その4

先日から、テーラワーダ仏教・スマナサーラ長老の本『慈悲の瞑想』についてご紹介しています。

●スマナサーラ長老の本『慈悲の瞑想』を読んでみた
●スマナサーラ長老の本『慈悲の瞑想』を読んでみた・その2
●スマナサーラ長老の本『慈悲の瞑想』を読んでみた・その3

「慈悲の瞑想」というのは、ネガティブな思考で汚れた心がたちまちキレイに、穏やかになる素晴らしい瞑想法です。

今回も、長老がこの本で公開された慈悲の瞑想の「フルバージョン」から、私の心に響いたフレーズについて記してみたいと思います。

今回は、

「無始なる輪廻のなかで、私の母でなかった生命はいません」

というフレーズです。

これは、私たちが何度も生まれ変わりを繰り返して今日に至っている、という仏教の考えにもとづく言葉です。

この地球には、何十億人もの人がいます。

人間ばかりではありません。

動物もいれば、昆虫もいる。魚もいれば、鳥もいる。微生物だって生命といえるでしょう。

とにかく無数の生命がいるけれども、何度も生まれ変わりを繰り返す過程で、そのすべてが母になった時があるというわけです。

その上慈悲の瞑想では、このフレーズの「母」の部分が、「父」「兄弟」「子供」「友人」に差し変わった文言が後に続いています。

いったい、どんだけ生まれ変わってんのや

って感じです。

とにかく、この世に自分と縁のない生命はいないんだから、どんな生命に対しても、慈悲の心でもって向き合わなければいけない、ということなんでしょう。

一方で長老は、ちょっと怖い話もされています。

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数え切れないほどの輪廻を繰り返してきたの中では、美しくない関係もあって、誰であっても嫌な人と出会う可能性は避けられないというのです。

さらには、過去生において誰かしら生命を殺してしまったことがあるかもしれなくて、その生命は、私に恨みを抱いたままどこかに生まれ変わり、いつか、どこかで2人が再会したところで、私を殺すというのです。

互いに過去生のことは覚えていなくても、そういう巡り合わせになるんでしょうか。

過去生で自分がやったことは完全に忘れているでしょうから、やり返されてもきっと、

なんでやねん!

と納得がいかないでしょうね。

自分に対する恨みを刻印した相手が、いつ目の前に現れるかと考え始めると、夜も眠れなくなりそう・・・。

でも、安心してください。

自分が慈悲の気持ちを抱いているならば、この恐ろしい悪循環が断ち切られると、長老は書かれています。敵意を持っていた生命も、味方の気持ちを抱くように変わるんだそうです。

慈悲のパワーってすごいですね。

今回の

「無始なる輪廻のなかで、私の母でなかった生命はいません」

というフレーズによって、慈悲の瞑想を実践する意味を、違った角度から理解することができました。

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